《吾輩は猫である》第108章


たが、枺L君は禅宗のぜの字も知らない男だから頓(とん)と感心したようすもなく
「へえ、そうかも知れませんが、やはり芸術は人間の渇仰(かつごう)の極致を表わしたものだと思いますから、どうしてもこれを捨てる訳には参りません」
「捨てる訳に行かなければ、お望み通り僕のヴァイオリン談をして聞かせる事にしよう、で今話す通りの次第だから僕もヴァイオリンの稽古をはじめるまでには大分(だいぶ)苦心をしたよ。第一買うのに困りましたよ先生」
「そうだろう麻裏草履(あさうらぞうり)がない土地にヴァイオリンがあるはずがない」
「いえ、ある事はあるんです。金も前から用意して溜めたから差支(さしつか)えないのですが、どうも買えないのです」
「なぜ?」
「狭い土地だから、買っておればすぐ見つかります。見つかれば、すぐ生意気だと云うので制裁を加えられます」
「天才は昔から迫害を加えられるものだからね」と枺L君は大(おおい)に同情を表した。
「また天才か、どうか天才呼ばわりだけは御免蒙(ごめんこうむ)りたいね。それでね毎日散歩をしてヴァイオリンのある店先を通るたびにあれが買えたら好かろう、あれを手に抱(かか)えた心持ちはどんなだろう、ああ欲しい、ああ欲しいと思わない日は一日(いちんち)もなかったのです」
「もっともだ」と評したのは迷亭で、「妙に凝(こ)ったものだね」と解(げ)しかねたのが主人で、「やはり君、天才だよ」と敬服したのは枺L君である。ただ独仙君ばかりは超然として髯(ひげ)を撚(ねん)している。
「そんな所にどうしてヴァイオリンがあるかが第一ご不審かも知れないですが、これは考えて見ると当り前の事です。なぜと云うとこの地方でも女学校があって、女学校の生徒は課業として毎日ヴァイオリンを稽古しなければならないのですから、あるはずです。無論いいのはありません。ただヴァイオリンと云う名が辛(かろ)うじてつくくらいのものであります。だから店でもあまり重きをおいていないので、二三梃いっしょに店頭へ吊(つ)るしておくのです。それがね、時々散歩をして前を通るときに風が吹きつけたり、小僧の手が障(さわ)ったりして、そら音(ね)を出す事があります。その音(ね)を聞くと急に心臓が破裂しそうな心持で、いても立ってもいられなくなるんです」
「危険だね。水癲癇(みずてんかん)、人癲癇(ひとでんかん)と癲癇にもいろいろ種類があるが君のはウェルテルだけあって、ヴァイオリン癲癇だ」と迷亭君が冷やかすと、
「いやそのくらい感覚が鋭敏でなければ真の芸術家にはなれないですよ。どうしても天才肌だ」と枺L君はいよいよ感心する。
「ええ実際癲癇(てんかん)かも知れませんが、しかしあの音色(ねいろ)だけは奇体ですよ。その後(ご)今日(こんにち)まで随分ひきましたがあのくらい美しい音(ね)が出た事がありません。そうさ何と形容していいでしょう。とうてい言いあらわせないです」
「琳琅 鏘(りんろうきゅうそう)として鳴るじゃないか」とむずかしい事を持ち出したのは独仙君であったが、誰も取り合わなかったのは気の毒である。
「私が毎日毎日店頭を散歩しているうちにとうとうこの霊異な音(ね)を三度ききました。三度目にどうあってもこれは買わなければならないと決心しました。仮令(たとい)国のものから譴責(けんせき)されても、他県のものから軽蔑(けいべつ)されても――よし鉄拳(てっけん)制裁のために絶息(ぜっそく)しても――まかり間摺盲仆诵¥蝿I分を受けても――、こればかりは買わずにいられないと思いました」
「それが天才だよ。天才でなければ、そんなに思い込める訳のものじゃない。羨(うらやま)しい。僕もどうかして、それほど猛烈な感じを起して見たいと年来心掛けているが、どうもいけないね。音楽会などへ行って出来るだけ熱心に聞いているが、どうもそれほどに感興が仱椁胜ぁ工葨|風君はしきりに羨(うら)やましがっている。
「仱椁胜し饯撕悉护坤琛=瘠扦长狡綒荬窃挙工瑜Δ胜猡韦韦饯螘rの苦しみはとうてい想像が出来るような種類のものではなかった。――それから先生とうとう奮発して買いました」
「ふむ、どうして」
「ちょうど十一月の天長節の前の晩でした。国のものは揃(そろ)って泊りがけに温泉に行きましたから、一人もいません。私は病気だと云って、その日は学校も休んで寝ていました。今晩こそ一つ出て行って兼(かね)て望みのヴァイオリンを手に入れようと、床の中でその事ばかり考えていました」
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十一 … 7
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「偽病(けびょう)をつかって学校まで休んだのかい」
「全くそうです」
「なるほど少し天才だね、こりゃ」と迷亭君も少々恐れ入った様子である。
「夜具の中から首を出していると、日暮れが待遠(まちどお)でたまりません。仕方がないから頭からもぐり込んで、眼を眠(ねむ)って待って見ましたが、やはり駄目です。首を出すと烈しい秋の日が、六尺の障子(しょうじ)へ一面にあたって、かんかんするには癇癪(かんしゃく)が起りました。上の方に細長い影がかたまって、時々秋風にゆすれるのが眼につきます」
「何だい、その細長い影と云うのは」
「渋柿の皮を剥(む)いて、軒へ吊(つ)るしておいたのです」
「ふん、それから」
「仕方がないから、床(とこ)を出て障子をあけて椽側(えんがわ)へ出て、渋柿の甘干(あまぼ)しを一つ取って食いました」
「うまかったかい」と主人は小供みたような事を聞く。
「うまいですよ、あの辺の柿は。とうてい枺─胜嗓袱悚ⅳ挝钉悉铯辘蓼护螭汀?br />
「柿はいいがそれから、どうしたい」と今度は枺L君がきく。
「それからまたもぐって眼をふさいで、早く日が暮れればいいがと、ひそかに神仏に念じて見た。約三四時間も立ったと思う頃、もうよかろうと、首を出すとあにはからんや烈しい秋の日は依然として六尺の障子を照らしてかんかんする、上の方に細長い影がかたまって、ふわふわする」
「そりゃ、聞いたよ」
「何返(なんべん)もあるんだよ。それから床を出て、障子をあけて、甘干しの柿を一つ食って、また寝床へ這入(はい)って、早く日が暮れればいいと、ひそかに神仏に祈念をこらした」
「やっぱりもとのところじゃないか」
「まあ先生そう焦(せ)かずに聞いて下さい。それから約三四時間夜具の中で辛抱(しんぼう)して、今度こそもうよかろうとぬっと首を出して見ると、烈しい秋の日は依然として六尺の障子へ一面にあたって、上の方に細長い影がかたまって、ふわふわしている」
「いつまで行っても同じ事じゃないか」
「それから床を出て障子を開けて、椽側(えんがわ)へ出て甘干しの柿を一つ食って……」
「また柿を食ったのかい。どうもいつまで行っても柿ばかり食ってて際限がないね」
「私もじれったくてね」
「君より聞いてる方がよっぽどじれったいぜ」
「先生はどうも性急(せっかち)だから、話がしにくくって困ります」
「聞く方も少しは困るよ」と枺L君も暗(あん)に不平を洩(も)らした。
「そう諸君が御困りとある以上は仕方がない。たいていにして切り上げましょう。要するに私は甘干しの柿を食ってはもぐり、もぐっては食い、とうとう軒端(のきば)に吊(つ)るした奴をみんな食ってしまいました」
「みんな食ったら日も暮れたろう」
「ところがそう行かないので、私が最後の甘干しを食って、もうよかろうと首を出して見ると、相変らず烈しい秋の日が六尺の障子へ一?
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